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ベルギーコラム

Vol.09 バンシュの町のカーニバル

宮崎真紀

ベルギー在住、フードジャーナリスト及び衣食住に関するコーディネーター。食の世界の生活情報誌「ボナペティ」編集長。他に、国立料理学校でのフランス料理、フラワーアレンジ、ベルギーボビンレースの教室を主催する。

冬の真っただ中、一年中で一番寒いときに催されるカーニバル。この時期ベルギー各地でそれぞれに趣向を凝らしたカーニバルが行われる。特に有名なのが2003年ユネスコ無形遺産に指定された、バンシュのカーニバルである。やるほうは燃えているが、しかし見る方は寒いのなんのって。

カーニバルって?

カーニバルとは、毎年2月(年により3月)の「告解の日曜日から火曜日」までの3日間行われる、飲めや歌えの大騒ぎの祭りである。その昔カトリックでは、翌日の「灰の水曜日」から復活祭までの40日間の肉食を禁止したので、その直前にたらふく飲み食いしておこうというのが起源らしい。さすが現在では肉の断食はしないが、それでもこの期間チョコレートやワインなどの嗜好品を断つ人がまだたくさんいる。

バンシュのカーニバル

リオのカーニバルは暑い国ゆえ裸同然で踊りまくるが、バンシュはその反対に藁をたっぷり詰めこんだ衣装を着込み、1メートル近いダチョウの羽飾りのついた帽子をかぶり、オレンジを投げながら太鼓に合わせて木靴を踏み鳴らして行進する。 カーニバルの主役ジルを初めて見たとき、なんて不思議な格好をしているのだろうと思ったが、これは当時の人が想像するインカ帝国の人の姿だそうだ。なぜインカ帝国なのか?という謎を解くキーワードが「コロンブスのアメリカ大陸発見」である。ご存知のようにコロンブスの航海を支援したのがスペインのイザベラ女王。その孫のカール5世はベルギー生まれで、16世紀半ばヨーロッパの大部分と新大陸を治めたスペイン王(=神聖ローマ帝国皇帝)である。その彼がベルギーを来訪した折、カール5世の妹マリアがバンシュで催した大饗宴でデビューしたのが、征服した新大陸に住むというインカの民の姿を模した道化師だったというわけだ。

懐かしのジルたち

数年前、日本からの友人達とこのカーニバルを見に行った時の話である。広場をグルリと取り囲むバリケードの一番前にへばりつき、強風が吹く極寒の中じっと待つこと数時間。この時ほど時間が経つのを遅いと思ったことはなかった。あまりの寒さに、場所を取られるのを覚悟で、群集を掻き分けてホットワインを買いに走った。その甘い熱いワインを一口すすった時、以前日本のテレビ取材でここに滞在したときの興奮が、思いがけずあざやかに蘇ってきた。その番組はジルに密着取材して、この町の人々のカーニバルへの思い入れを描くというものだった。ユネスコ無形遺産に指定される大分以前の話である。

一年を3日で生きるバンシュッ子

観光局で紹介された或るジル一家のカーニバル1週間前から撮影はスタートした。普段はどういうこともない小さな田舎町のため、カーニバル期間ホテルが取れず、我々は毎日車で片道1時間かけて通うことになった。

初めて訪問すると、たくさんの老若男女が小さな応接間にひしめいていた。この家の主は代々ジルをやる家系で、当年85歳のお祖父さんから孫やひ孫さらに親戚一堂が勢揃いして、日本人とはどんな人種かと待っていたのだ。飛んできた子供達がカメラやマイクをとり囲み、触るやら質問を浴びせるやらで挨拶どころではない。しかしこのお陰で我々はすっかりバンシュッ子の一員となり、これを食べろあれを飲めと勧められ一気にお祭り気分に引き込まれたのだった。

彼らの通常の毎日はカーニバルのためにある。この日のためにせっせと貯金をし、それを三日間で使い果たすそうだ。1ヵ月半前から始まる準備の時からこの町の人たちの心はカーニバル一色となる。鉦や太鼓が一日中鳴り響き、多量のオレンジが届けられ、町中のカフェは完全にカーニバルのイルミネーションで飾られる。

シャンパンと牡蠣で景気をつけて

最高潮に達する火曜日の朝、3時起きという一家に合わせて、我々も徹夜同然だった。この頃までには、スタッフも鉦と太鼓が鳴り出すと自然に足がステップを踏み、体でリズムをとるほど、みんなしっかりとバンシュっ子になっているのには笑ってしまった。

奥さんはご主人を叱咤激励しながら仮装の着付けに髪振り乱し、集まった男性陣は牡蠣を開けたりシャンパンを抜いたり忙しい。また投げるためのオレンジをリュックに詰める人々やその周りを駆け回る子供たち、それを撮影する我々とまるで戦場の騒ぎだ。牡蠣を食べ、シャンパンを飲み干していると、闇の遠くから鉦と太鼓が聞こえて来た。迎えの合図である。こうして太鼓に先導されたジル達が三々五々集まり始めた頃、やっと夜が明けたのだった。

呼び物のオレンジ投げが始まると、投げる方も受け取る観客も興奮のるつぼの中にいた。夜半に入るころは人垣も熱気も最高潮に達し、我々は広場に備え付けられた火の見やぐらのような高い台の上でカメラを回していた。しかし夜気と風で寒いの寒くないのって・・・。足踏みしていると、突然誰かに肩をたたかれた。振り向くと背後の2階の窓から、シャンパングラスを差し出しながら、なにやら叫んでいる人がいる。どうやらお前さん達も飲みなさいよということらしい。飢えと寒さの極限にいた我々、飛びついたのはいうまでもない。ジーンと熱くなった胸と胃。どんどんお代わりがくるシャンパン。こうして夜中まで祭りは続いていったのだった。

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